仕事を楽しむ、という呪い。

はじめてのニュースレター、何を書こうかとアレコレ頭を悩ませました。書きたいことはいくつかあるものの、この場所は、皆さんともう少し近い距離感でお話したい。うーん、難しく考えすぎですかね。でもレター名の通り、わたしは「今日も考える」のがクセになっているので仕方がない(笑)散々考えたあげく、まずはこの話からにはじめようと思います。12年かけて思い込みが解けた35歳の、いまのお話。
スワン 2026.09.05
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最近、自分の中にある恐ろしい思い込みに気がついた。それが「仕事を楽しんでいない自分はダメ」という、強烈な評価軸であった。

この異様さに気がついたのはつい先日、仕事に対する罪悪感に悩まされていたときのことだ。

今の会社に勤めて2年半が経つのだが、入社してから今の今までずっと自分の中で腑に落ちていなかった感触があった。それが、「自分はいま、ちゃんと仕事を楽しめているのか」という、内側から沸き起こる強いプレッシャーであった。

わたしが今の会社に入ったのは、息子が生まれて2年ほどのタイミングであった。時短勤務ではないものの、週3回は保育園のお迎えに合わせて17時過ぎに一度会社を出る必要がある。勤務体系としてはフレックスを採用しているため、日中不足している数時間を朝や夜に分割することで就業時間を補完していた。

しかし、わたし自身の中ではずっと小さな不安があった。それは「自分はちゃんと働きけていないのではないか」「周りの期待に応えられていないのではないか」という、漠然とした罪悪感であった。

日々のフィードバックや、評価面談でとやかく言われたわけではない。しかし周りからどう思われているのか、私の首筋には常に冷ややかな感触があった。自分が「ここに居て良い」と思えるほどの安心感は、正直どこにもなかった。

没頭から目覚めて

過去を振り返ってみると、2社・6年間の会社員経験はあったものの、このような思考を持ったことはあまりなかったように思う。今思えば、当時は独身・結婚後も子なしのDINKSのときであり、朝から晩まで自分のことだけを考えればよい生活であった。もちろん本業以外にも趣味や副業も並行していたが、仕事や事業に対する没頭感には疑いのない自信があった。

しかし、その頼みの綱だった「自信」が、知らぬ間に姿を消していたのだ。そのせいか、子育てと仕事を両立するためにいくら効率化をしようと、その不快感は一向に解消されなかった。この自信の家出騒動は、よくよく考えるといまの会社に入る前――つまり5年間の自営業時代からすでに始まっていた。

当時は自分で事業を立ち上げ、年1回の教育プログラムの運営をしていた。最初は「これをするために会社を辞めたのだ!」と興奮していた。実際に何でも自分で意思決定できる環境は楽しかったし、手応えがあった。しかし目新しい仕事は次第に日常となり、数年かけて暗く重いものへと変容していった。

まず、大変情けない話ではあるのだが、自分で立ち上げた事業の運営が想像以上に苦しかった。そしてその苦しさは、年々重みを増した。初めての事業なのだからすべてが上手くいかなくて当然と言えばそうなのだが、コンセプトにはじまり、料金設定、関係者への支払い、トラブルの対応には答えがなく、とにかく疑心暗鬼の毎日であった。思ったように規模や売り上げが伸びないことも、よりわたしの不安を深めた。

しかしいま思うと、この根源には別の、より根深い問題が潜んでいた。それが「仕事が楽しくない自分」を許せない、もう一人の自分の存在であった。

演技が本物にすり替わる

このもう一人の自分は、強烈な価値観に裏付けられている。それは「嫌々仕事をするなんて、かっこ悪い。」というものである。

こういうと、ずいぶんと意識が高い人間に思われるかもしれない。しかしその実態は陳腐で、とても打算的だ。この思考は、社会人になってから「求められる立ち振る舞い」を、知らぬ間に内面化させただけに過ぎないからだ。

社会人になりたての頃、わたしは仕事が楽しかった。デザインという行為自体にやりがいを感じていたし、根は負けず嫌いでもあったので、同期との競争もゲームのような感覚で取り組めた。実際に成績も悪くなかったので、やればやるほど達成感が積み上がった。

しかし、わたしはその過程で変な学習をした。それが「仕事を楽しんでいると評価される」という、シンプルな環境適応であった。元気に仕事に取り組み、積極的に動いて発言をするとやけに褒められる。その事実に気がついてから、わたしは半分無意識に、もう半分は意識的に「仕事を楽しんでいる自分」を演じるようになった。

仕事を楽しんでいると、周りから評価される。
重宝されるし、コミュニティから受け入れてもらえる。

学生時代、理不尽な人間関係ばかりを経験してきた自分にとって、これほどわかりやすい評価軸は大変魅力的だった。おまけに良くも悪くも、わたしには「仕事を楽しんでいる自分」を演じる才能がそこそこあった。

しかし、当初はひとつの処世術として取り組み始めた演技が、いつしか自分の中の価値観そのものにすり替わっていった。仕事を楽しめていない自分は、ダメな存在としてバッサリ処理されるようになった。

歯車がかみ合わなくなるとき

年を重ねて、仕事の責任も増えた。多少の経験を積んだせいか、業務内容によっては飽きを感じることもあるし、以前よりはいろんな物事の裏側が見えるようになった。

とっくに自分のライフステージは進み、家族や生活のことの優先度も上がった。どうしても扱わなければいけないプロジェクトの数が増えるから、どうしても以前のような没頭感は持ちにくい。

こうなると、急に歯車がかみ合わなくなる。

ちょっとだけ気の乗らない業務、不安で逃げたい仕事。それに直面している自分は、もう情けなくて耐えられない。そして評価できないのだ。おまけに「いい歳のくせに」と自分の脇腹を刺したくなる始末だ。

こうなると、個人活動も苦行になる。例えば、子育て、書籍の原稿執筆、YouTubeの撮影。全力で楽しめていない行為すべてが「手抜き」に思えてくる。そして、いまの状態は良くないこと。恥ずかしいことだと自分を責め立てるようになる。

こんな状態では、心が荒むのは想像に難くない。働いても休んでも、一向に気分は上がらない。ここ数年の不調の原因は、この「仕事を楽しむ自分」であり続けようとする自分と、現実との乖離にあったのだ。

呪いが解けて

興味深いことに、こうした強烈な思い込みは「ネタばらし」がされると急に効力が色あせる。俗に言うメタ認知というやつだ。我に返ると、この思い込みがいかに馬鹿馬鹿しいことかがよくわかる。

もちろん、20代の自分とは働き方も、仕事との向き合い方もすっかり変わった。興味関心を持つにはそれなりのハードルがあるし、体は疲れやすくなった。集中力を保つためにも、多少の工夫が要る。それでも、わたしたちはちゃんと今の環境や、自分の境遇に合わせてなんとか形を保とうとしている。

一体、これのどこが悪いというのだろう。

これは開き直りに聞こえるかもしれない。現状は何ひとつ変わっていないのだから。それでも、不用意に自分を貶める必要はない。自分の気分が悪化したら、もちろんそれは自分にとって不利益だし、会社の同僚や家族にとっても勝手に落ち込んでメンタルを崩しされてはたまったものではない。

今のわたしは、盲目的にずっと仕事が楽しいわけではない。でも、それは仕事をさぼっているわけでも、不当に手を抜いているわけでもない。知らぬ間に自分にかけた、勝手で都合のいい魔法が解けただけである。

この魔法に自らかかり、解くまでには約12年もの歳月がかかった。これが長編小説だとしたらあまりに長く、そして退屈なストーリーの伏線回収である。けれど、冒険者の予後は明るい。

わたしは夏の終わり、秋の明るさをまとった空を仰ぎながら、乗り気のしない電車に笑顔で乗り込むのだった。

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コーヒーの残りに、リンゴジュースを注ぐ。